<?xml version="1.0" encoding="utf-8"?>
<rss
 xmlns:dc="http://purl.org/dc/elements/1.1/"
 xmlns:content="http://purl.org/rss/1.0/modules/content/"
 version="2.0">
 <channel>
  <title>ジェンダーフリーについてのサイト</title>
  <link>http://www.arcadiadecorazioni.com</link>
  <description>RSSに乗せる説明</description>
  <language>ja-JP</language>
  <pubDate>Wed, 05 Aug 2009 02:55:11 +0900</pubDate>
  <lastBuildDate>Wed, 05 Aug 2009 02:55:11 +0900</lastBuildDate>
  <category>生活と文化</category>
  <item>
   <title>■一度読むといろんな論点が見えてくる、「ジェンダーフリー」の参考書</title>
   <link>http://www.arcadiadecorazioni.comartArticleContents/index/id/5</link>
<content:encoded><![CDATA[
1.「男性のためのジェンダーフリー読本　少し立ちどまって、男たち」<br />
（江原由美子著　東京女性財団）<br />
2.「新・国民の油断 「ジェンダーフリー」「過激な性教育」が日本を亡ぼす」<br />
（西尾幹二、八木秀次著　PHP研究所）<br />
3.「男の子の脳、女の子の脳〜こんなに違う見え方・聞こえ方・学び方」<br />
（レナード・サックス著　草思社）<br />
4.「バックラッシュ　何故ジェンダーフリーは叩かれたのか？」<br />
（上野千鶴子他著　二風社）<br />
5.「私らしく、あなたらしく　やまなし　0歳からのジェンダーフリー」<br />
（山梨県立女子短大ジェンダー研究プロジェクト編　生活思想社）<br />
6.「女性とは？男性とは？ジェンダーの心理学」<br />
（青野篤子　ミネルヴァ書房）<br />
<br />
賛成派、否定派、多くの出版物が出ています。ひとつ読むと、考え方の背景や、可能性、問題点が見えてくると思います。
]]></content:encoded>
   <category>ジェンダーフリー関連文献</category>
   <pubDate>Wed, 05 Aug 2009 02:55:10 +0900</pubDate>
  </item>
  <item>
   <title>■手法が問われる「ジェンダーフリー」の実践</title>
   <link>http://www.arcadiadecorazioni.comartArticleContents/index/id/4</link>
<content:encoded><![CDATA[
理論への賛否両論がある中で、教育の現場における、「固定的な男女間の役割分担を押し付けずに、個性を尊重する」とした実践が行われています。例としては<br />
1.クラス名簿の男女混合化<br />
2.体操着やランドセルの色などを男女統一にする<br />
3.「女らしく」「男らしく」などの言葉を使わない<br />
4.呼ぶ際の「君」づけ、「さん」づけを、男女で統一する<br />
5.運動会の競技を男女混合にする<br />
などがあります。<br />
これを見て、みなさんどう思われますか？個人的には、4と同じような、「言葉」での実践については、「男女の社会的役割に固定的な差はないよ」という意識教育として、ありではないかなと思います。例えば「看護婦」や「保母」を「看護士」「保育士」に変えるとか、「女社長」「女流作家」などわざわざ「女」であることを補足しない、「嫁にもらう」などの男尊女卑的言い回しをしない、などです。こういう小さい取り組みの積み重ねによって、意識って変わっていくものだろうと思います。ただ、その他の取り組みについては、賛否が分かれるだろうな…という感じです。運動会の競技を男女混合にするといったって、身体能力の差がある中でやっても、逆に男女の能力差を意識するだけになりそうです。ダンスとか演技系のものならまだ混合も理解できるのですが。あと、ランドセルの色とか服装に関しては、男女同一にするというより、選択の自由があるという形にしないと、ジェンダーフリーの掲げる「個人の尊重」それすら守れなくなる感じもします。そういう目に見える切り分けを排除していくことが、意識の変革のために重要なのだという考え方はよく分かるのですが・・・。
]]></content:encoded>
   <category>ジェンダーフリーの実践例</category>
   <pubDate>Wed, 05 Aug 2009 02:54:48 +0900</pubDate>
  </item>
  <item>
   <title>■日本における男女不平等の歴史</title>
   <link>http://www.arcadiadecorazioni.comartArticleContents/index/id/3</link>
<content:encoded><![CDATA[
「男尊女卑」という言葉がありますが、日本におけるこの傾向は、武家社会の時代に起因すると言われています。古代では卑弥呼の例を見ても、女性の地位は比較的高かったとされていますが、平安時代後期あたりから、仏教の普及の中で、修行僧に対する戒訓的な意味で女性排他の考えが生まれ、女性は武士や世継ぎとなる「男子」を生み出すためだけの存在と見なされるようになりました。江戸時代には儒教思想の影響から身分制度が確立し、女性の身分の軽視がさらに決定的なものとなりました。男子を家督とする武士社会の家族制度がそのまま引き継がれるかたちで、明治時代、大正時代と、男性が一家の大黒柱として働き、女性は家でそのサポートと家系をつぐための男子出産を役割とする風潮が続いていきました。男女差別が存在した主な分野には、<br />
1.参政権：国政、地方行政ともに、男性のみに選挙権<br />
2.労働分野：賃金格差、昇進制度の格差、女性の労働時間の制限など<br />
3.宗教、文化分野：女性の土俵入りを認めない、祭などにおける女人禁制など<br />
などがあり、昭和に入って起こった婦人参政権運動を皮切りに、少しずつ不平等の是正に向けて動きだすこととなりました。<br />
<br />
■現在の男女格差はどうか？<br />
現在、日本の法制度では、表向きの「男女格差」は存在しないことになっています。例えば職業の募集に関しても基本的には男女の差なく募集することが義務づけられましたし、賃金制度についても、女性であることを理由にした格差の設定を禁じています。ただし、実際の所得や企業内での昇進の実情など見てみると、まだまだ「男女平等」とはいえない状況が起こっています。例えば同じ職務を同じクオリティでこなせば、男女間の賃金に格差はないわけですが、結婚や出産による離職の懸念から、あらかじめ業務の与え方に差別があったり、配置そのものが女性に不利なように操作され、それが女性の昇進や給与アップを阻んだりしていることが理由と考えられています。その他、相撲の土俵に女性が入れないことは変わっていませんし、スポーツ界を見ても男女は明確に分かれ、パイロットの世界ではようやくはじめての女性パイロットが誕生した…など、いろんな場面で、男女格差と言える問題は現存しています。ただし、これらの問題については、男女差別ではなく、「能力評価」「伝統的な文化慣例」「男女の身体的差異の考慮」である、という捉え方があり、議論の分かれるところとなっています。その意味でいわゆる「男女格差」「男女差別」の問題と「ジェンダーフリー」は、論点そのものが違うということが言えるわけです。<br />
<br />
■世界の「性差別」の現状<br />
「男尊女卑」と言えば、日本独特の風習と勘違いされがちなのですが、実は欧米にも「男女格差」は古くから存在し、女性に参政権が与えられたのは20世紀に入ってからです。これには、キリスト教の考え方に「女性蔑視」が存在するから、など様々な学説があり、ただ日本よりも早く、その考え方からの脱皮ムーブメントが起こった、というだけの話なんですね。世界各国を見てみると、今でも「男女差別」と思われる風習や政策は現存しています。イスラム文化圏では、女性のスポーツ観戦の禁止や服装の制限（顔を隠すなど）、中国では、既婚女性の就職の制限、韓国では先祖供養の仕方が男女で違うなど、各国に大小の男女差別や格差が存在するようです。
]]></content:encoded>
   <category>性差別の歴史</category>
   <pubDate>Wed, 05 Aug 2009 02:53:46 +0900</pubDate>
  </item>
  <item>
   <title>■肯定派、否定派が入り交じる「ジェンダーフリー」論争。</title>
   <link>http://www.arcadiadecorazioni.comartArticleContents/index/id/2</link>
<content:encoded><![CDATA[
誰でも、女性のしぐさで美しいなと思うことや、男性の発言で「男らしくて潔いな」と思うことってありますよね。そして、そのイメージなり規範は、過去に培われてきた文化（狩りをする男性、気の利く女性など）から生まれたことであり、その規範自体が家族の形態や社会を強固にしたり、子孫の繁栄や文明をつくりあげてきたという側面があるわけです。それを否定するのか、という論調。それから、ジェンダーフリーの発想が、女性に対して「働け」という心理的負担を強いることになり、逆の意味で自由を否定することになる、少子化も助長する、などという論調もあります。端午の節句やひなまつりなど、伝統的な文化の否定につながる、なんていう否定論。そして、ジェンダーフリー論が女性擁護に偏る傾向があるために、「逆差別である」「不平等主義である」というものまで。ここに、最近の「性同一性障害」や「同性愛」の話もからんできたりして、専門的には、もっと細かく難しい論争がいろいろあるみたいです。ちなみに、東京都の石原都知事は「男と女は同等であっても、同質ではない。男女の区別なくして、人としての規範はもとより、家庭、社会も成り立たない」と強調して、行き過ぎたジェンダーフリー教育に批判的な態度をとっています。<br />
<br />
■言葉の遊びになり兼ねない論争<br />
かなり個人的な意見なのですが、肯定派も否定派も「男性と女性は生物学的性差がある」ということは、あたり前として認めているわけです。その上で、「男女差」よりも「個人」を尊重する社会であるべきなのも、誰も否定はしないでしょう。生物学上の性差を認めあって、補いあって生きて行く社会になればいいいという考え方は誰もが同じです。その上で、教育現場による明らかな偏り修正（トイレを男女共用にするとか、男女の名簿を混在にするとか）に対する否定意見や、言葉上の論証で「ジェンダーフリー理論は最終的につきつめれば生物学的性差を否定することになる」などという、重箱のすみをつつくような論争は、なんだかあまり意味がないような気がしています。行き過ぎが、その発想自体の魅力までつぶしてしまうのは、ジェンダーフリー論に限ったことではありません。お互いのいい部分だけを組み合わせていけばいいのではないでしょうか。ただ、こういう論争の中で、その折衷論も磨かれていくのだろうとは思いますが。
]]></content:encoded>
   <category>ジェンダーフリーをめぐる論争</category>
   <pubDate>Wed, 05 Aug 2009 02:53:23 +0900</pubDate>
  </item>
  <item>
   <title>■「ジェンダーフリー」は日本の造語</title>
   <link>http://www.arcadiadecorazioni.comartArticleContents/index/id/1</link>
<content:encoded><![CDATA[
「ジェンダーフリー」は英語通りに訳すと「性差からの解放」。単純に考えると、社会の中における男女間の格差を排除すること…というように捉えられるわけですが、この言葉は当初アメリカで最初に使われたときと日本での使われ方に根本的な意味の違いが生まれてしまい、現在では日本独自の造語的な意味合いを持つ言葉として存在します。アメリカで同じ意味のことを表現する言葉は「ジェンダーイクオリティ」「ジェンダー・バイアス・フリー」などであるとされ、「ジェンダーフリー」では意味が通じないことが多いようです。ここでいう「性差」の捉え方について、学術的でなく素人の頭で考えても「男女には身体的差があるのにもととも格差を無くすなど不可能では？」とか「違いを尊重して生きていけばいいのでは？」なんて感じたりしますから、扱う問題自体がかなり深いし、解釈も少しずつ分かれていくのだろうと思われます。では、日本で現在、一般的に使われている「ジェンダーフリー」とはどういう意味なのでしょうか？<br />
<br />
■「ジェンダー」とは生物学的性差のことではない！<br />
「ジェンダーフリー」の解釈には、学者や運動家によって少しずつ違いがあるのですが、まず、ここでいう「ジェンダー」とは、生物学的な「性差」のことではなく、「社会的、文化的性差」のことを指します。様々な枝葉の違いを無視してあえて分かりやすくいうなら、「社会の中で、男だからこうあるべき、女だからこれはいけない、というような、歴史的あるいは固定的な認識、役割分担を押し付けない」という意味です。「ジェンダーフリー」の考え方は、単純な男女平等論とは一線を画していて、「男女差で役割やものの考え方を分けるのではなく、個人の個性を尊重しよう」「社会の単位は男女ではなく個人である」という積極的な捉え方をしたほうが、その意図を理解しやすいと思います。
]]></content:encoded>
   <category>ジェンダーフリー基本情報</category>
   <pubDate>Wed, 05 Aug 2009 02:52:57 +0900</pubDate>
  </item>
 </channel>
</rss>
