誰でも、女性のしぐさで美しいなと思うことや、男性の発言で「男らしくて潔いな」と思うことってありますよね。そして、そのイメージなり規範は、過去に培われてきた文化(狩りをする男性、気の利く女性など)から生まれたことであり、その規範自体が家族の形態や社会を強固にしたり、子孫の繁栄や文明をつくりあげてきたという側面があるわけです。それを否定するのか、という論調。それから、ジェンダーフリーの発想が、女性に対して「働け」という心理的負担を強いることになり、逆の意味で自由を否定することになる、少子化も助長する、などという論調もあります。端午の節句やひなまつりなど、伝統的な文化の否定につながる、なんていう否定論。そして、ジェンダーフリー論が女性擁護に偏る傾向があるために、「逆差別である」「不平等主義である」というものまで。ここに、最近の「性同一性障害」や「同性愛」の話もからんできたりして、専門的には、もっと細かく難しい論争がいろいろあるみたいです。ちなみに、東京都の石原都知事は「男と女は同等であっても、同質ではない。男女の区別なくして、人としての規範はもとより、家庭、社会も成り立たない」と強調して、行き過ぎたジェンダーフリー教育に批判的な態度をとっています。
■言葉の遊びになり兼ねない論争
かなり個人的な意見なのですが、肯定派も否定派も「男性と女性は生物学的性差がある」ということは、あたり前として認めているわけです。その上で、「男女差」よりも「個人」を尊重する社会であるべきなのも、誰も否定はしないでしょう。生物学上の性差を認めあって、補いあって生きて行く社会になればいいいという考え方は誰もが同じです。その上で、教育現場による明らかな偏り修正(トイレを男女共用にするとか、男女の名簿を混在にするとか)に対する否定意見や、言葉上の論証で「ジェンダーフリー理論は最終的につきつめれば生物学的性差を否定することになる」などという、重箱のすみをつつくような論争は、なんだかあまり意味がないような気がしています。行き過ぎが、その発想自体の魅力までつぶしてしまうのは、ジェンダーフリー論に限ったことではありません。お互いのいい部分だけを組み合わせていけばいいのではないでしょうか。ただ、こういう論争の中で、その折衷論も磨かれていくのだろうとは思いますが。